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2018.04.15 東京学生寮の生い立ち

      東京桑野会 広報部会 会報編集委員会

 母校・(旧制)安積中学/安積高校出身者が東京の大学に進学するにあたり、保護者が安心して預けることのできる寄宿舎の存在は心強い。東京在住の安積OBが中心となって、大正10年(1921年)10月に安積出身者のための学生用寄宿舎「東京桑野寮」が開設された。場所は東京・戸山ヶ原と同窓会名簿の年表に記録されているが、『安積中学校五十年史』には、『戸塚町(戸塚原一丁)』との記載があり、現在の新宿区戸塚町1丁目・西早稲田1丁目あたりだったと推定される。既に開寮当時、早稲田大学や早稲田中学の校舎と運動場、電鉄車庫や大隈邸などが建っており、その周辺の民有地ではないかと考えられる。当時の状況では神田川以南は戸山ヶ原の一部と考えられており、年表の記録は間違っていない。その後手狭になって戸塚町伊勢原(現在の新宿区高田馬場4丁目)に、さらに最終的には中野区新井薬師町(現在の中野区新井5丁目)に移転した。昭和20年(1945年)5月の大空襲で焼失するまでの24年間、学生達の生活の場となった。また一方では、安田財閥の安田善五郎(安積17期生)が私財を投じて東京・牛込に「積善(せきぜん)寮」を開設したのは、昭和4年(1929年)4月であった。こちらも昭和20年5月の大空襲で焼失するまでの16年間、学生達の生活の場となった。後者は食事を含む寄宿費用だけでなく、学費までも賄ってくれたと言われている。「積善」とは、安田善五郎の父で安田財閥の創始者である安田善次郎の言葉「積善の家に必ず余慶あり」から取ったというが、文字通り安積の「積」と善五郎の「善」を組み合わせていることも偶然ではない。残念ながら戦後に再建されることはなかったが、多くの学生達がお世話になった。前会長の澤田悌(42期)もその一人である。現在の場所は記録がなく、よく分かっていない。
 昭和30年(1955年)になって、福島県は千葉県松戸市松戸に男子学生寮、東京都渋谷区幡ヶ谷に女子学生寮を開設した。安積出身者に限定されたものではなく、福島県出身者のための学生寮である。県の補助を受けながら低料金で生活できる、戦後の学生達の憩いの場所であった。しかしながら入寮する学生数の減少と、老朽化や耐震強度不足による再建資金に目処がたたず、平成23年(2011年)3月末で閉鎖となった。東日本大震災の直後のことであった。その後の公的な福島県学生寮は建設されることはなく、それぞれ大学毎に設置された学生寮(対象は全国)の充実化と相まって、個々の出身県が運営する公益法人の学生寮については必要性が低下していった。
 しかしながら例外ではあるが、会津出身の大学生らが生活する東京都文京区千石の会津学生寮「至善(しぜん)寮」は今もなお運営されており、開設の大正6年(1917年)から数えて昨年2017年10月1日に開寮100周年を迎えた。公益財団法人として運営され、元白虎隊士の山川健次郎が学生寮設立に関わり「会津の絆」精神が受け継がれていると聞く。ちょっとうらやましい。
 さて話は戦前の東京桑野寮に戻る。当寮は大正10年(1921年)10月17日、東京・戸山ヶ原に木造2階一戸建ての民家を借用し、開設された。賄いのために寮母さんが住み込んでいた。母校を卒業した大学生や専門学校生の寄宿舎としての役割はもちろん、都内に在住する他の卒業生や母校との連絡、上京した安積の教員や生徒の宿泊、在校生や卒業生同士の東京での懇親の場所としても重要な拠点となった。この寮名が親睦団体「東京桑野会」の語源となったとも言われている。大正12年(1923年)5月戸塚町伊勢原に移転した東京桑野寮は、さらに9年後の昭和7年(1932年)7月28日に中野区新井薬師町で売りに出ていた医院を四千円で買い取り移転した。2階建の母屋と平屋の離れの2棟であり、土地は借地権であった。資金は全額安積中学後援会が出資し、半分を寮生が5年間かけて返済したと言われている。安積の友愛を育んだ学生寮であったが、昭和20年(1945年)5月24日の夜10時頃から始まった米軍B29の爆撃を受け、翌日未明に焼失し寮母の石塚トヨさんが焼夷弾の直撃で死亡、多くの寮生が焼け出された。以来、戦後に再建されなかったことは残念である。戸山ヶ原開寮時の寮長は、大方政一(31期)でスタート時は寮生5名、24年間で総勢75名の寮生が生活した。安積国造神社の宮司であり安積幼稚園の前園長、安藤重春(43期)も東京美術学校在学時だけでなく、画家として制作作業をしながら当寮で過ごしたと言う。空襲の下で寮母の石塚トヨさんと手を取って逃げ出したのは、津田喜三次(55期)であると1990年9月1日付朝日新聞デジタルのデータベース記事で明らかになっている。最後の寮生のひとりである。
 戸山ヶ原の開寮の地は地番が分からず所在の特定はできなかったが、移転後の寮の所在場所は旧地番が分かっており、戸塚町伊勢原838番地の方は現在の新宿区高田馬場4丁目25番、JR高田馬場駅南の「諏訪通りガード」をくぐって西へ300m進んだ付近の右手北側で、新井薬師町255番地の方は現在の中野区新井5丁目13番、新井薬師公園のすぐ東隣である。これらの地を訪ねて写真を撮影したので、いずれ皆さんにはご報告する所存である。
 最後に肝心な東京桑野会の名称について、諸説あるものの東京桑野寮の命名者が箭内亙(当時、東京帝大文学部助教授、安積6期)であったと記録が残っていること、開寮した翌年の大正11年(1922年)秋に開催された在京同窓会の席で東京桑野会という呼称を既に使用していること、その出席者に箭内亙の名があることから、東京桑野寮から派生して命名されたものと容易に推定される。この時の同窓会出席者は、堀田貢、鈴木利平、中澤彦吉、箭内亙、久米正雄、寺田四郎、南大曹、濱田四郎、七海兵吉らであった。その後、昭和初期発行の安積野には、仙台桑野会、京都桑野会、台湾桑野会の名が書かれている。組織的な名称として会則にて決定されるのは、戦後の昭和26年(1951年)7月になってからである。

【参考文献】
 1) 福島県立安積中学校五十年史  昭和9年(1934年)3月31日発行
 2) 安中・安高百年史  昭和59年(1984年)9月8日発行
 3) 安積野67号  昭和13年(1938年)2月1日発行
 4) 国土地理院 新宿区および中野区 区分地図(大正12年、昭和10年実測)


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参考頁: 「東京桑野寮」開寮の地を探る