71期 大内博文 |
2007.02.10 「海洋国家日本」への独り言
「海洋基本法(仮称)」が今国会で議員立法として審議されている。海洋・海運国家としての認識は国民の中に定着しているであろうか。
日本の領土は、現在38万平方キロの面積を有し、世界で59番目の広さを持つ。これが排他的経済水域面積(EEZ)を取ると447万平方キロとなり、6番目の面積となる。この広大な面積をいかに管理・利用するかは日本として重大な問題である。海洋保安を担当しているのは海上保安庁で、総員12,000名、1,800億円余の予算で運営されている。保安業務がまともに守られていればこそ、海運・造船・舶用関連・水産・海底資源探査・開発関係業が安心して営まれる。
日本は資源エネルギーの95%、全食料の60%を船舶による輸入に頼っている。日本国籍船(国旗日の丸を掲げてる船)は1600隻(S47年)、から95隻(H17)へ、外航日本人船員は60,000人から2,600人となり、(社)日本船舶機関士協会会員(外航船の機関長・機関士)は5,700人から1,000人となっている。日本の人口は減少に転じたとは言え1億2000万人を数える。資源が乏しく自給自足が出来ない日本は、原料を輸入し製品を輸出している形態は今後とも変わることなく続いていく。
輸出入は船舶に頼っているのは前述のとおりであるが、それを運航する船員はこれまた減少の一途である。日本で船員が減少に転じたのは、1985年のプラザ合意による為替政策の転換にある。1975年頃より日本人船員コストが為替変動に伴い急激に上昇し、一部で外国人船員(部員;普通船員)との混乗化が始まり、一方で日本人船員のみで運航する近代化船がスタート、35名の乗組員が18名船まで実験・実用化された。更にパイオニアシップと称する11名の定員まで努力したがコスト比較で勝負に負けた。これに代わり混乗船の増加と共に、日本籍船が便宜置籍船となり外国に船籍を置き日本船社が運航する形態が増えた。世界情勢が平和な時代にあれば、海運会社が生き残りをかけた結果としてやむを得ないと思う半面、現場船員の心情は計り知れないものがあった。これが昭和60年(1985)から緊急雇用対策としての船員の合理化(希望退職・陸上職への転換)であり、海運業界・船員労働に今も影を引いている。
戦争で日本船舶は陸軍・海軍の徴用船としてその大半は撃沈され、同時に乗組員は船と共に運命を共にした。その数は45,000人余に達し、軍人の戦死比率を上回り、御霊は横須賀市の観音崎公園に眠っている。今年も5月11日(金)関係者による追悼式典が予定されている。失った船舶・船員の戦後補償はどうであったか。戦後日本はゼロからの出発より復興を成し遂げた中で、船・船乗りを思い出す人は少ない。今では演歌にもマドロスは出てこない。
船員になるには海員学校(現・海技教育機構)、商船高校(現・商船高専)、商船大学(現・東京海洋大学海洋工学部、神戸大学海事科学部)があり、最大で年間1,500名を超える人材を卒業させ、多くを外航海運に投入してきた。現在外航海運への部員(普通船員)としての就職はなく、職員(航海士・機関士)は高専・大学あわせて250人の定員枠があるが、海技免状取得の乗船実習課程へ進むのは150人程度で、実際に船員として海運会社に就職するのは40〜50名であった。ここに来て日本人海技者が急激に不足し(特に機関士)、昨年は80名程度が船員として海運会社に就職した。今後150〜200人(年)程度が継続的に海上職を経験しなければ、日本の海事クラスター社会は崩壊するとの声もある。
参考までに平成5年まで、安積高校から東京商船大学に進んだ人は、64期2名、65期2名、66期2名、67期1名、68期1名、69期3名、71期1名、72期1名、73期1名、77期1名、83期1名、88期1名、97期1名、99期1名、101期1名、103期2名の計22名で、73期までの14名のうち12名が機関科に入学している。なぜ機関科希望者が多かったのか。当時は入学条件に視力検査があり(裸眼航海科0.8、機関科0.6以上)旧校舎での授業が多少の影響があったのだろうか。
(社団法人日本船舶機関士協会 会長 71期:大内博文)
<東京桑野会会報29号掲載記事からの転載>
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