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71期の塩谷哲夫氏
71期 塩谷哲夫
(ちょっと若い?)
2008.06.07 いちばん遠くて、いちばん近しい国ブラジル −ブラジル日本人移民100周年を記念して−

塩谷哲夫(東京農工大学名誉教授、全拓連JATAK参与)
※JATAK:農業技術普及交流センター

1.日本人の親戚が世界一多い国ブラジル
 日本人がブラジルに移住して100年が過ぎた。「1908年6月18日9時30分、皇国殖民合資会社(水野龍社長)募集の781名の農業契約移民(165家族733名、独身者48名)ほか自由渡航者12名を乗せた笠戸丸がサントス港に到着した。サンパウロ州コーヒー農場への雇用契約移民の始まりである。」(移民80年史編纂委員会,『ブラジル日本移民八十年史』)。
 以来100年、移住した日本人に端を発して、日本人のDNAを持った日系人"ニッポブラジレイロ"は今では150~160万人もいるのである。ブラジルは地球の裏側にあるから、地理的にはわが国から一番遠い国ということになるが、しかし、血のつながりから言ったら日本に一番近い国である。ブラジルには、地理的に近いアジアよりもはるかに多くの親戚の人々が住んでいるのである。
 ブラジルでは、「笠戸丸」がサントス港に着いた6月18日を「移民の日」として記念している。今年2月のリオデジャネイロのカーニバルのパレードには、日本人のブラジル移住100周年を記念して、「笠戸丸」の山車が登場し、日本との友情を謳いあげたということが、日本の新聞(『朝日新聞』2008.2.4夕刊)やテレビのニュースでも報道されていた。それだけ、ブラジルの人々には日本に対する親近感があるし、20万人以上もの日系ブラジル人が日本で働いているのに、日本では、どうしたわけか、ブラジルへの関心はいまひとつ盛り上がってこないようである。
 往来の多い隣の中国や韓国についてはまだしも、アメリカ合衆国やヨーロッパ諸国よりも、ブラジルの実情は日本人に知られていない。アメリカの大統領選挙(まだ「予備選挙」の段階なのだが)の動静はまるで日本のことのように事細かく報道されて、いやでも知らされてしまう。しかし、ブラジルの大統領の名前をどれだけの日本人が知っているだろうか? 一昨年、ルーラ大統領が何人もの閣僚や経済使節団を伴って日本にやって来て、国会でも演説したが、テレビや新聞ではまったくといってよいくらいに取り上げられないで無視されていた。私は残念に思う。

2.豊かな資源を活かし、夢を現実にする技術とパワーのある大国ブラジル
 多くの日本人が知っているブラジルは、コーヒーがとれる、サッカーが盛んで強い、カーニバルで大騒ぎする…(それも商業的に派手なリオのことだけ。どんな田舎の町でも行われている催事なのだが)。残念ながらそんなところかな? そうそう、最近は「サトウキビからとれるバイオエタノールで車を走らせているらしい」…あたりのことが一般に日本人の頭に浮かぶブラジルかもしれない。
 ところがブラジルは実は"すごい国"なのだ。コーヒー、オレンジ、牛肉、砂糖、鶏肉など、農産物の世界の1,2を誇る輸出国である。近年の日本の輸入鶏肉の半分が鳥インフルエンザに冒されていないブラジル産で占められている。農産物だけでなく鉄鉱石(バーレ社が海上貿易量ベースの33%を占めて世界一。『朝日新聞』08.02.19)、ニッケル、アルミニウム、石炭などの鉱物資源でも大国である。石油は2006年に100%自給を達成している。1日当たりの原油生産量(国営公社ペトロブラス)は石油メジャーの第3位をロイヤル・ダッチ・シェルと競い合うレベルにある。2,000メートルを越える深海から石油を掘りあげる世界一の技術を開発した(日本はこんな深海の探索も出来ずにいて、ようやくこれから調査に乗り出すことになった1月のTVニュースが報じていたのを聞いて、日本はそんな国だったのかと、その展望のなさにあきれてしまったのだが…)。飛行機(小型ジェット機生産のエンブラエル社)などの工業製品だって輸出している(『日経ビジネス』06.12.28)。
 ブラジルには、天然資源のポテンシャルが高いことにおんぶしているだけではなく、それを活用する技術力を持っているのである。まだ油田が見つからなかった時代(1970年代)には、豊かな太陽と大地の恵みのサトウキビからエタノールを生産し、それで自動車を走らせることをやってのけたのもそのひとつの証明である。
 将来を見通して、常識はずれと思われるほどの壮大な目標を立てて、それをいつの間にか実現してしまう"すごさ"、夢を追う情熱と、蛮勇というか、それをやり遂げるパワーがあるとんでもない国だと、最近になって私はそう思わされている(もう少し教育に力を入れたら、もっとすごくなるのではないかと思う。でも、その結果が日本のような"型にはまった"国になるのではなく、今までのようなおおらかで"可能性のある"国であってほしいと虫のいいことを願っている)。
 また、首都ブラジリアを不毛の奥地、セラードの地に建設したことにもそれが現れている。にぎやかにサンバを踊り、ピンガを飲んで、浮かれているのかと思っていたら、日本人も含めて、世界の民族のDNAを融合させて築き上げてきたブラジルは、実は、とんでもない力を秘めているのである。
 そうは思っていたのではあるが、そんな私が驚かされたのは、元日の「読売新聞」の社説『多極化社会への変動に備えよ』の中に載っていたグラフである。世界最大規模の投資銀行「ゴールドマン・サックス」の『2050年の経済大国』のベストセブンの国内総生産(GDP)の棒グラフである。1位中国(50兆ドルに迫る)、2位米国(30数兆)、3位インド(20数兆)。はるかに水をあけられて10兆未満のレベルではあるが、肩を並べて日本と競っているのが、ブラジル、メキシコであった。次がロシア。(ところが、社説の本文では、「唯一の超大国の揺らぎ」としてアメリカ合衆国に、「重さを増す対中外交」として中国に触れているが、ブラジルやメキシコには何の言及もないのである。)
 こんなブラジルと、親戚の人が沢山いて、日本語だって通じる機会も多いブラジルと、日本はもっと仲良く付き合ったほうがいいのではないかと思う。

3.ブラジル農業と日本人(DNA)の果たした役割
3−1.ブラジルの歴史:

 もともと、新大陸ブラジルにはネイティブの人々の"農的営み"はありましたが、日本人が「農業」という言葉で思い浮かべるような形態での食料等の農産物を商品化する農業はありませんでした。
 (移住したヨーロッパからの人々の自給食料といえば、最初は放牧した牛の肉かな? ガウーショの炭火焼シュラスコ。肉を食っていれば良かった。ビタミンなどの補給には飲むサラダであるマテ茶…といったところでしょうか。南部のヒオ・グランデ・ド・スル州やサンタ・カタリーナ州にはヨーロッパ系の人々の移住地があり、街づくりも農業も祖国に準じたやり方をしていると聞きましたが、訪ねていないので実態は分かりません。)
 1500年に「ブラジル」を"発見"したポルトガル人にとって、ブラジルでの農業は宗主国ポルトガルやヨーロッパのための商品を生産することでした。先進ヨーロッパ諸国が、15世紀末以来、大航海をして、アジア、アフリカ、新大陸に植民地を開いたのは、コショウやシナモンなどの香辛料、砂糖、紅茶、そしてコーヒーなどを求めて農業生産を行うことがその大きな目的一つであったわけです。このことは[ポルトガル→ブラジル] (砂糖、コーヒー)セットに限りません。[オランダ→インド] (コショウ)、[イギリス→インド] (コショウ、ワタ、紅茶)、 [スペイン→フィリピン] (砂糖)などにしても同じことです。その農業生産の方式は、その時代、作物によって、具体的なあり方には違いはありますが、基本型は農業労働者、自国からの移民もありましたが、多くは侵略した土地の人々、あるいはアフリカから"輸入"した奴隷などを多用したプランテーション型でした。「近代社会」の土地(農地)所有制度が制定される以前の状態において、農場を開くことは、一国(領地)、ひとつの大きなコミュニティー、総合的な生産・生活の機能を備えた社会を作ることでもありました。
 ブラジルの農業生産は、ポルトガルからの移住者によって始まり、また、18世紀後半から1850年の廃止までアフリカからの黒人奴隷労働力によって、さらに19世紀後半からはヨーロッパ諸国からの移民によって大農場制が支えられてきました。そして、生産物としては、まずサトウキビが、ついでコーヒーがブラジル財政を支える大きな役割を果たしてきました。例を挙げると、第二次帝政の1880〜1885年当時の世界全生産の56%をブラジルが生産していました。そして1889年共和制の独立国家として自立してからも、自前の民族資本の活動として大規模農場が引き継がれ、この流れは土地制度が整った現在においても大規模な「農産企業」として展開されています。ブラジルは大規模・低コスト生産を力にして、国際商品としてのコーヒー、サトウキビ(砂糖)、オレンジ、牛肉などにおいて世界一の輸出国になっています。現在は、ダイズ、サトウキビ(エタノール)が好調です。
 (ブラジル人はダイズを食べません−USAも同じことです。それは生食用の「食料」農産物ではないのです。日本から導入した、オイルや飼料の加工原料であるに過ぎません。また、サトウキビの半分以上は現在燃料用エタノールの生産にまわしています。そして1,600万台のアルコール燃料車を走らせています。日本人の潜在意識にあるような"食べ物"をそんな風にして…という"罪悪感"はありません。ブラジル、USAにとっては当然のバイオマス資源の利用の仕方の一部であり、その地の農業生産者にとっては儲けが大きければ良いのですから。)

3−2.ブラジルにおける日本人の"農業"
 こんな輸出農産物の大規模・大量生産を柱とするブラジル農産業界に、あるときから"異変"が生じました。殿様のような万ヘクタール単位で表現される規模の大農場主"ファゼンデイロ"がやっている農業だけが"本当の「農業」"で、数十ヘクタール程度では「シーチオ」と呼ばれる田舎の農園付き別荘で、10ヘクタール以下なんて貧乏人の自給用「家庭菜園」位にしか考えられていなくて、そんなものの面倒を見る政策は必要ないから、「農業統計」上の「農場」にはカウントしないように整理してしまおうとしていました。そんな時、サンパウロ近郊で、10ヘクタールにも満たないような小片の土地で商品としての農産物を作って市場に出して「農業」、「農場」経営を成立させている変わった輩が現れました。それが日本人だったわけです。
 ブラジルに行っても、やっぱり「日本人」ですね。大農場に雇われて働くだけの農業労働者では終わらない。まず、コーヒー園の労働者として働いて得たお金で土地を買い、身に付けた技術を活かして、小さなコーヒー園の経営者になった。そこからスタートして、誰でも食べなきゃ生きていけないから、必ず食料農産物の需要はあることを見越して「食べ物を作る農業」をして、小さくとも「食っていける農業」を展開した。
 そして、小さいもの同士が力を合わせて「産業協同組合」を結成して(1927年、「コチア・バタタ生産者産業組合」が産声を上げる)、1950年には、「コチア産業組合」のサンパウロ市の食料供給力は、トマト80%、バレイショ60%、鶏卵70%、蔬菜80%、果実65%をも占めるまでになりました。1992年には組合員18,309名、総事業費8億5千万US$を越えるまでに成長しました。もうひとつの日系「スールブラジル」も組合員約1万4千人を抱える大農協でした。
 小さい土地でも集約的にコツコツと土地を、作物を世話して、同じ面積当りで何倍ものよい品物を作って、売る。稼ぐ。農地は小さくとも立派な農業経営者として、ファゼンデイロとは違うやり方の集約的な農法による農業経営があることを身をもって示した。こうしてブラジルの「農業」の概念を変えたのでした。(なお、隆盛を誇った「コチア」、「スールブラジル」は、ともに1994年に"解散"してしまった。)

3−3.ブラジル農業発展への日本人の貢献
 2004年に来日したR.ホドリグェスブラジル国農務大臣(当時)は、ブラジル農業への日本人移民の貢献を次のような観点から高く評価した演説を行いました。(なお、彼はコーヒーの名門大農場出身の大学農学部教授で、農協の単協・連合会組合長、世界農協連の会長も務めました。彼の農場は、今ではサトウキビ、ダイズなどを大きくやっています。)
@ コーヒーだけだったブラジルの農産物を拡大してくれた。
A 農業生産の伝統のないブラジルに、日本から新技術を導入して、ブラジルにおける農業生産の技術体系を確立してくれた。
B 大農場の農地を分割して耕作農民に農地を分譲する拓植事業を通じて、ブラジルの「農地改革」に着手してくれた。
C まだ「組合法」のなかったブラジルで組合(産業組合=農業協同組合)を組織し、中小農場(農民)の生産物を商品としてブラジル全土に流通させる仕組みを導入してくれた。

[参考]『ブラジル日本移民8八十年史』より。
1)日本人の「新作物の導入と育成」における貢献。
@ 果実類:アボガド、パイナップル、パパイ温帯果実アなどの熱帯原産果実を改良して商品化した。リンゴ、ナシ、モモなどの温帯果実を日本から導入した。合計19種類。
A 蔬菜類:レタス、ニンニク、馬鈴薯、タマネギなど、欧州移民が持ち込んだ蔬菜を日本人が改良して商品化した。ハクサイ、サトイモ、ダイコンなどを日本から導入した。合計24種類。
B 繊維作物:ラミー、イグサ、ジュートなどの栽培法を確立し商品化した。
C 花卉・庭園樹:グラジオラス、カーネーション、キク、ツツジ、ツバキなどの導入。
D 香料・嗜好作物:コショウ、茶の導入。グァラナーの改良、商品化。
E 雑穀作物:ダイズ、コメ、ソバなどの導入、栽培法の確立。
F 新しい作物類:アセローラ、クプアスー、キウイ、レイシの商品化。
2)新しい農業の開発
@セラード地域における農業団地開発。
 政府・州の開発計画に日系農協・農業者が積極的に参画し、先駆的な役割を果たしてセラード開発を成功に導いた。また、日伯共同の総合開発事業を通じて、ブラジル全産業に大きなインパクトを与えた。(コーヒーのセラード地帯への進出も、この取り組みの一環として行われました。)
A生産団地開発。
 国家プロジェクトであるサン・フランシスコ河流域開発に参画し、生産団地方式によるピラポーラ果樹団地、クサーラ果樹団地を開発した。また、南部のサンタ・カタリーナ州において、サン・ジョアキン:リンゴ生産団地の開発を行った。これらの開発事業はコチア、スールブラジル農協中央会が生産団地を造成して組合員農家が参加して産地を開発するという従来のブラジルにはなかった方式によって行われたものであり、その後の農地開発事業のモデルとなった。
3)農業協同組合の創設と発展。
 コチア産業組合中央会、南伯農業協同組合中央会の設立とその活動は、ブラジルの農協運動のモデルとなった。

 ブラジルに移住した人々個々の運命については波乱万丈、喜怒哀楽、千差万別…であったことでしょう。ただし、それらの総体を人類の文化史的観点から振り返ってみれば、移住した日本人とそのDNAを引き継いだニッポブラジレイロたちが、この100年、いかに努力してその特性を発揮して生き抜き、多民族が融合して新しい文化を創造するブラジルの壮大な世界史的事業に参加し、その発展に多大な貢献をしてきたかということが評価できるのではないかと思います。そして、私は、これからも続けられていくその歩みを親愛の情を持って見つめつつ、微力ながらも、その活動に協力して行きたいと思っています。

                                                           (2008年3月28日)

                                                    (東京農工大学名誉教授、71期:塩谷哲夫)

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