71期 塩谷哲夫
(ちょっと若い?) |
2008.06.07 ブラジルコーヒー : 日本人の100年
−ブラジルで半世紀、日本人最高のコーヒー園を築いた農場主からの手紙−
塩谷哲夫(東京農工大学名誉教授、全拓連JATAK参与)氏の連載になります
※JATAK:農業技術普及交流センター
笠戸丸
日本人の初めてのブラジル移民船「笠戸丸」が1908年6月18日にサントスの港に着いた。今年はブラジル日本人移民100周年に当たる。それを記念してさまざまな取り組みが行われる。
2月のブラジル・リオのカーニバルには、「笠戸丸」をテーマに、生け花や寿司、大仏様などの日本文化を象徴した飾りつけや日本のきものをデザインした衣装のダンサーを配した山車が登場した。ブラジルのサンバチームに日系の人々も参加してパレードする姿が日本のテレビや新聞(『朝日・夕刊』2008.2.4など)に報道されていた。"おーッ、ブラジルでは盛り上がっているなー"と、ついこの前まで現地にいたものとしてはわくわくした思いがした。それだけブラジルでは日本人DNA・日本文化がブラジル社会に、ブラジル文化の構成要素として、しっかり根付いているのである。
それにくらべたら、送り出した側の日本ではその気配もない…とわびしい気持ちでいたら、さすが、ブラジルからの輸入コーヒーに端を発したコーヒー業界はそんなことはなく、記念商品を出していることを知った。いささかうれしくなって、早速、それらを手に入れたわけである(写真)。
uccは期間限定でコーヒー豆『ブラジル シモサカ農園』、缶コーヒー『珈琲探検BRAZIL』を園主「シモサカ・タダシ」の写真入りで発売した。
キーコーヒーは日本人のコーヒー生産の100年の足跡を辿った『日本人ブラジル移住100周年記念シリーズ』を販売している。
コーヒーは日本人とブラジルをつないだ絆
日本人移民はコーヒー園のコロノ(労働者)として雇われてはるばる地球の裏側まで海を渡って行った。それは、当時の困窮を極めた日本の賃金水準から言ったら、ブラジルから日本に仕送りができて、また契約期間を勤め上げたら故郷に錦で帰国できると思わせるような契約条件であったからであった。ほとんどの移民は出稼ぎが目的であった。
しかし、現実にはそんなわけには行かず、暑いブラジルで、なれない労働、厳しい生活環境のために、配属された農場から逃げ出したり、マラリアや病に倒れたりした人々も多かったようである。厳しい状況は石川達三の『蒼氓』(1935年.第1回芥川賞)や北杜夫の『輝ける碧き空の下で』(第1部,1982)に描かれている。その一方、その試練を乗り越えて、コーヒー栽培の技術を身に付け、資金を蓄えて、コーヒー園の労働者から、ブラジルの大地に根っこを張って、小さいながらも独立の農園経営者になった人々も多かった。日本人は、ただ働かされるだけのコロノで終わりはしなかったのである。不撓不屈の精神、優れた知力と技を発揮して成功した多くの人々がいなかったら、今日の150万人を越える日本人DNAを持った人々がブラジルにいるわけがないのである。このすばらしい事実が移民の困窮・悲惨さの強調の陰に隠れて意外に知られていない。
この辺の事情が堀部洋生の『ブラジル・コーヒーの歴史』(1973年,サンパウロ)に具体的なデーターを付してよく書かれている。すなわち「…コーヒー園を持ちたいという日本移民の『執念』は、わずかの年月で見事に実を結んだ。第1回移民が入ってから15年後の1923年ごろ、邦人のコーヒー植栽樹数はすでに2500万本を数えた。超えて1928年には4000本に達し、さらに移民25周年祭の行われた1932年には、実に6000万本に達していた。つまり、25年間に1万本の小耕主が6千人できたわけである。」
1932年まで渡伯者は11万5千人、2万1千家族。そのうち約4分の1の5132戸が土地所有農家になっている(サンパウロ農務省調べ)。コーヒー農家が59%、コーヒー以外の農作目は、棉花14%、コメ8.3%、近郊作物13%、その他5.7%であった。
植え付けられていたコーヒー樹は総計62,213本で、15万本以上の大きな園の経営者が5人、10万本以上が10人、5万本以上が65人もいたということである。まさに、コーヒーのおかげで日本人移民の暮らしが成り立っていたのである。コーヒーこそが、ブラジルと日本人を結ぶ絆であったと言えよう。
その後、1929年の世界金融恐慌、過剰生産によるコーヒー価格の暴落などが影響してコーヒー農家は39%に減少し、代わって棉作農家が39%になっている。また、第二次世界大戦、コーヒー不振が続いてコーヒー農家は24%にまで減少したが、1958年には28.3%にまで回復している。この間、日本人はサンパウロ近郊に移動が進み、そこで野菜、果樹、花などの近郊型農業を展開し、産業組合(コチア、スール・ブラジルなど)を結成し、サンパウロの生鮮食品市場に、さらにはブラジル全土の農産食品市場に大きな力を発揮するまでになる。また、農業以外の生産、社会活動部門にも進出した。こうして、笠戸丸移民から数えて今日までの100年にわたって、日本人、そのDNAを持った人々は、ブラジル社会の発展に大いに貢献してきたのである。
"ブラジルの兄貴"からの手紙
さて、uccに登場しているシモサカ農園の下坂匡さんは私の"ブラジルの兄貴"分である。"おめでとう"のメールを打ったら、さっそく、彼からうれしい返信メールが届いた。
「今のところ、雨は順調。大豆やトウモロコシ、コーヒーはまあまあです。3月末から5月頃まで大豆、トウモロコシの収穫。6月〜9月初めはコーヒーの収穫。"良かった、悪かった"と言いながら52年になりました。」
「52年前、アララクアラ線のジャーレスにて独立。18年間、毎年300俵前後の精選でした。でも、その当時は大農場になった気持ちでありました。それも現在は見ることができません。」
下坂一家(東五郎夫妻と5人の兄弟)は福島県いわき市の出身で1956年にブラジルに渡り、サンパウロ州カフェランジャの戦前移民の服部農場でコーヒー栽培を学んだ。そして、現在はミナスジェライス州カルモ・ド・パラナイーバの「ファゼンダ・パライーゾ」の450ヘクタールのコーヒー園を中心に、大豆・トウモロコシ・採卵養鶏などの総合農業で大きな成果を挙げている。1989年からは日本に『カルモ・シモサカ』ブランドで生豆を輸出している。
"コーヒーの放浪性"
下坂さんからの手紙の末尾の「それも現在は見ることができません」の1行が、ブラジルのコーヒー生産の歴史をたどるときに、実は、大きな意味があるのである。ブラジルのコーヒーの場合は産地の移動が驚くほどはっきりしているのである。"昨日までは見渡す限りの広大なコーヒー園が広がっていたのに、今日は一本のコーヒーの樹も見えない。そして、どこか遠く離れたところに忽然と大産地が出来上がっている。"と言うことになるのである。それに伴って生産者も大挙して移動しているのである。「こうしたコーヒー(産地の)移動を、あるものは"コーヒーの放浪性"と呼んでいる」(堀部洋生,前出)。
科学的な根拠は明らかではないが、察するところ、次々と肥沃な土地を求めてフロンティアを切り拓いてゆく植民地プランテーション型の開拓農業の姿なのではないかと思われる。ブラジルには、「テラ・ロッシャ」(紫色の土)と言われる世界的に有名な肥沃土壌のが分布しているが、そこでは、無肥料で数十年にもわたって高い収量水準で作物が作れる。ただし、さすがのテラ・ロッシャも数十年もの収奪農業にさらされると、養分低下や病害虫の集積などによって地力を失って、粗放農業では経済的に引き合わなくなり放棄されてしまう。コーヒーに限らず、ワタや穀物でもありうることである。旅をしていると、かつての農産地帯が、今ではまばらな放牧牛が草を食むだけの低生産力のパスト(草地)になっているところに出会う。
日本人のコーヒー生産100年の足跡
「キーコーヒー」のシリーズは、ブラジルでの日本人のコーヒー生産の変遷を辿って、その時代にゆかりの商品を順次販売するものである。その時代区分は次の四つである(ホームページから引用)。@"苦難の時代":1908〜1918年.最初の移民が農園労働者として契約雇用された時代。 A"開拓の時代":1920〜1974.自分の土地を求める移民たちが入植地から移動。小集団日系社会を作り始めた時代。B"挑戦の時代":1975〜1985年.セラード開発事業が始まり、広大な土地に夢を馳せた人たちの苦労・努力の時代。C"成熟の時代":1986〜現在.現在…スペシャリテイコーヒーとして名高いセラード(引用者が一部改訂)。
下坂さんは、このキーコーヒーの時代区分に沿って、自らの経験を踏まえた実感をこめて、私への手紙の中で次のようにコメントしている。
"苦難の時代"
「コーヒー栽培はモジアナ線のリベロン・プレトを中心に行われていました。今はコーヒー農家はありません。」(その後、中心は西へ移ったが)「(私のいたジャーレス方面でも)現在はコーヒー農場を見ることはできません」(括弧内は著者が付記)。
ところで、私が仕事をしていた「JATAK農業技術普及交流センター」は、昔の大コーヒー農場「ファゼンダ・グァタパラ」の広大な敷地の一角にある。この農場は笠戸丸移民の人々はじめ、その後の多くの日本人移民が働いていたところである。しかし、今は見渡す限りの丘陵一帯がほとんどサトウキビに覆われて、まるで"緑の海"のようである。見回しても1本のコーヒーの樹も見当たらない。この地がかつて一面のコーヒー園だったとは想像もできない。しかし、サトウキビ畑の奥深くに、1984年の銘を掲げた「ファゼンダ・グァタパラ」の管理人屋敷跡、コーヒー精選工場、農場コミュニテイーの映画館「CINEGUATAPARA」などの遺構があった。かつての賑わいがしのばれる(写真)。
"開拓の時代"
「サンパウロ州は古いコーヒーのため(生産力が低下し)、土地の良いパラナ州にコーヒーは移動しました。私の植民地からも数人行きました。私は18年間ジャーレスでやってきましたが、これから先どうするか考えた末、未知のセラードに関心を持ちました。」
「その頃は家族労働中心の農場であり、大型コーヒー栽培者はほんの一部でありました。奴隷制度があるときは大地主コーヒー栽培が大部分を占めていたものと思います。」
当時、匡さんは将来に不安を感じていた。ジャーレスは常に気温が高く、そのためにコーヒー樹の生育は良いが稔りが良くない。兄弟が多く、それに見合う規模拡大をしようにも、ここは土地も狭く、地価も高い、などなど。この時期、ミナスジェライス州政府のセラード開発計画に、1973年南ブラジル産業組合中央会(下坂東五郎理事)はその将来性を認めて参加を決定した。事前に状況を調査していた匡さんは率先して入植し、カルモ・ド・パラナイーバ(ミナス・ジェライス州)の地にコーヒーを植えた。
セラードは、強酸性・高アルミニウム濃度、強い乾期などのために、"閉ざされた"(ポルトガル語「cerrado」の意味)不毛の地として農地にならなかったところである。その地で作物を栽培する、コーヒーを育てる技術の難しさ、大きな資金投資のリスクを抱えた経営上の苦労は、私も1980年にJICA専門家として農業技術開発の研究協力に派遣されて、短期間であるが駐在していたので、身をもって入植者の挑戦の厳しさが分かる。
私が匡さんの言葉として、強く印象に残っているのは「気象は変えられない。しかし、土壌は変えられる」と言うことである。つまり、ジャーレスやパラナでの気象災害は人為的な努力を積んでも避けられない。セラードの土壌条件は悪いが、それは自分の技術・経営の工夫・努力によって克服してみせると言う挑戦の宣言であったのである。
セラードでは、今までの肥沃な土地でのコーヒー生産技術とはまるで異なる"土作り"技術が必要であった。また加えて、乾期を克服する対策、規模拡大に伴う土地利用・作業システム管理技術、遠隔・僻地の新産地からの流通・販売戦略開発など、現代の商品生産農業経営の不可欠の多くの課題に取り組まなければならなかった。彼の兄弟経営「ファゼンダ・パライーゾ」はそれらをやりぬいた(シモサカ農場の写真)。
"挑戦の時代"
「パラナ州はたびたび霜の被害があり、コーヒー価格も低かった。セラード開発も10年経ち、セラードでのコーヒー生産が軌道に乗り始めて、霜の被害が少ないことから、80年代になると、南のサンパウロやパラナから多くの人が入ってきました。
キーコーヒーのこの時代の商品の原料豆を供給する「ボア・エスペランサ農園」のヤスナカさんは、1984年にパラナから来て、モンテ・カルメイロに入っています。」
"成熟の時代"
「セラードの気象・土壌などに対応する技術が確立されてきて、品質の良いコーヒーが出来るようになりました。この時代を象徴する豆を供給する「バウー農場」の福田富雄さんは、セラードコーヒー生産者の代表的な人物です。
私の弟、学の友達であり、サラリーマンを辞めて農場に来て、1年生からコーヒーを始めたのです。1984年にはカルモより40キロのところに土地を購入してコーヒー園を開きました。大変な努力家であり、勉強家であります。…7〜8年前から、日本の企業と販売契約しました。セラード地帯のコーヒー生産者は多いのですが、農場内に輸出できるまでの調製・精選設備を持っている人は少ないです。相撲の"恩返し"ではありませんが、良くぞここまで頑張れたと、福田さんは私の誇りであります。」
コーヒーの放浪の旅は終わるのか? どこへ行くのか?
ところで、セラードまで放浪の旅をしてきたコーヒーは、ここを「カナンの地」(旧約聖書,さまよえる神の民の落ち着く"約束の地")として落ち着いて成熟の時をずっと続けるのだろうか? かつての収奪農法と違って、セラードでは土壌・病害虫の管理、栽培から調製・選別・出荷までの機械化システムの確立などの集約管理を行っている。したがって、昔のように産地を放棄しなければならないほどの地力収奪は起こらないのかもしれない。
しかし、下坂さんは、今までの半世紀にわたる栄枯盛衰のコーヒー人生を振り返りつつ、ひそかに悩んでいるように思われる。「ファゼンダ・パライーゾ」をはじめ、セラードのコーヒー生産・販売は繁栄し、いまや月は満ちている。しかし、下坂さんは満月に忍び寄る影を感じているのかもしれない。その兆候があるとしたらそれは何なのだろうか? そして、コーヒーがまた旅に出るとしたら、どこを目指すのだろうか?
もしかしたら、北上してバイア州の乾燥地帯の高地で潅漑水を飲みながら一時を過ごそうとでもするかもしれない。そんな思いを抱きながら、下坂さんと一緒にバイアの高地を旅したことがある。そこには今までとは違う乾燥地灌漑農業の農法が生まれつつあった。私には興味深かった。いずれ、ここで見たこと、感じたことをレポートしたいと思う。
(東京農工大学名誉教授、71期:塩谷哲夫)
(当ホームページには写真は掲載されていません。)
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