タイトル

TOP頁へ戻る 東京桑野会の頁へ 会からのお知らせ 会員ブログ・メッセージボタン 事務局への問合せフォーム 東京桑野会会員からの特別メッセージ 20号

90期の柳沼亮寿
90期 柳沼亮寿






16期の移川子之蔵
16期の移川子之蔵
移川 子之蔵
(16期)
國立臺灣博物館収蔵・展示写真より



東京桑野会ホームページ委員会の頁へ
2018.02.24 偉大なる人類学者−移川子之蔵(第16期)−のこと

     柳沼 亮寿 (90期) 一般財団法人 日本国際協力システム

 うつしかわ・ねのぞう。この名前をご存知の卒業生、在校生はどれほどいるだろうか。
 私は学生時代、その頃はまだ知られていない(文化)人類学というものを専攻したので、当時、名前くらいは目にしたことがあったように思う。しかし、卒業後、ある本を手にした時のことであった。国分直一という南方民族学・考古学者が書いている移川子之蔵の項をぱらぱらめくっていると、以下の文が目に止まった。自分が専攻していた人類学の分野で、卒業生にこのような著名な人物がいたことに、とにかく驚かされたのだった。

 「移川の郷里は福島県二本松、生年は1884(明治17)年であった。1904年に福島県立安積中学校を卒業、1909年に米国イリノイ大学予科を修了、1914年にシカゴ大学よりバチュラ・オブ・フィロソフィーの学位を得、同年、ハーバード大学大学院に入学、人類学(民族学)を専攻、1917年、同大学よりドクトル・オブ・フィロソフィーの学位を取得した・・・」

 この本は、既に物故された著名な日本の人類学者22人名を取り上げ、その「人と学問」を解説するもので、私の恩師、故蒲生正男が最も新しい人物として掲載されていたので購入したのだった。移川子之蔵は一般に知られることのなかった人物だが、金田一京助、折口信夫などとともに同世代の著名な人類学者として掲載されている。
 遅きに失した感はあるが、改めてここに移川子之蔵のことをご紹介したい。
 彼を紹介するものとしては、先にあげた『文化人類学群像』3.<日本編>(1988年)所収で国分直一による「9.移川子之蔵−南方民族文化のパイオニア−」のほか、愛弟子の宮本延人の回想記「移川教授のことども」(1983年)、世界的人類学者と言っても過言ではない高弟の馬淵東一による「追悼 移川子之蔵博士」(1947年)がある。なかでも、直接の弟子ではないが、国分直一のものが移川の学問的傾向とその意義を含め、よく解説されている。馬淵東一のものは移川という恩師の人物像がよく描かれており、略歴、著作目録も充実している。しかし、何と言っても三者とも移川の言葉や人となりが紹介されていて非常に興味深い。

 国分は、その冒頭「1.飄々たる風格」と題して移川を以下のように表している。
 「移川子之蔵−その名を思い浮かべるだけで、この著名な民族学者―その研究領域の広さから言えば、人類学者と呼ぶほうが適切であるかもしれない―の飄々たる風格がなつかしく思い出される。東北弁の訛りの残るその声まで耳底によみがえってくるように思われる」。

 さて、移川の経歴について、国分は、弟子の宮本と馬淵による記述に若干の食い違いがあるとして、「福島の安積中学校卒業の時期がやや遅れているので(20歳で卒業…柳沼)、小学校卒業後、渡米、ある時期をアメリカのハイスクールで過ごして後、帰国、日本の中学校を終えて、再渡米、イリノイ大学からシカゴ大学を経て、ハーバード大学の大学院で人類学を修めたのではなかったであろうか。」と述べている。
 この経歴の中で不思議に思うのは、何故、日本の旧制高等学校や大学に進学することなく、福島の片田舎から中学卒業後すぐに渡米することになったのか、という点である。宮本によれば、「13、14歳の少年の頃、令弟と渡米され、、、令弟の方は、建築学を学ばれたという」。二本松市教育委員会文化課からいただいた資料によれば、移川の実家は、二本松で呉服太物商を営んでいて、兄の移川三郎(浩哉)は後に著名な日本画家となった。そのような家庭に育ち、弟ともに渡米するとは一体どのような背景があったのか、今や知る由もない。(因みに兄と弟の名前は安積中学校の卒業名簿には見当たらない)。
 このような経歴について、「・・移川が生存中であれば、そんなことはどうでもよいというに違いないと思うのであるが、・・」とか、「いささかも権威ぶった面持ちを見せたことはなかった。研究者のもつ気むずかしさは、かくしていたものであろうか。いつでもどこかでユーモラスな雰囲気をただよわせていた。」という国分の言に移川のひとなりが見て取れるような気がする。また宮本によれば、自分の名前でさえ、こだわりを見せなかったようで、日本からの書簡の宛名にUtsurikawa と書いてあることが多く、周囲の米国人に説明するのも面倒なことから、自らUtsurikawaと署名することにしたのだという。

 それでは、馬淵の追悼文とご子息かご息女による「父の経歴書」(二本松市教育委員会文化課提供、出典不明)から、その略歴を要約してみよう。

  1884(明治17)年11月:福島県安達郡二本松町字根崎2−9に生る。
   *現在この地に移川の生家はない。
  1889(明治23)年4月:二本松町尋常高等小学校卒業(15歳)
  1904(明治37)年3月:福島県立安積中学校卒業(20歳)
   *旧制中学は5年であったであろうから小学校卒業と同時に安積中学に入学したことになる。よって、小学校時代、
     もしくは中学入学後の一時期に渡米、帰国し、編入した可能性がある。なお、家業を継いだ長兄源吉は東京に
     出たという記録がある。
  1909(明治42)年6月:米国イリノイ大学予科修了(25歳)
  1914(大正3)年4月:米国シカゴ大学卒業(30歳)
  1917(大正6)年6月:米国ハーバード大学大学院修了(33歳)
               ドクトル・オブ・フィロソフィーの学位(民族学)を受く
  1919(大正8)年4月:慶應義塾大学文学部講師嘱託(35歳)
  1919(大正8)年9月:東京高等商業学校(後に東京商科大学)講師嘱託(英語)
  1921(大正10)年5月:東京商科大学附属専門部教授兼同大予科教授
  1926(大正15)年3月:台北高等学校教授(42歳)
                台北帝国大学創設準備在外研究員として2年間、英、独、佛に在留
  1928(昭和3)年3月:台北帝国大学教授、文政学部「土俗・人種学講座」を担当(44歳)
  1936(昭和11)年6月:『台湾高砂族系統所属の研究』にて帝国学士院賞を授与(52歳)
  1940(昭和15)年3月:文政学部長
  1943(昭和18)年3月:南方人文研究所長
  1945(昭和20)年4月:叙従三位、特旨を以って位一級被進
  1945(昭和20)年12月:国立台湾大学文政学院の留用を解かる
  1946(昭和21)年:アメリカ進駐軍司令部重要文化財調査員
  1947(昭和22)年2月9日:東京にて急性肺炎により逝去(63歳)

 移川の渡米の目的は美術や建築の勉学であったようであり、「民族学・人類学を専攻したのは遥かに後のことであった・・墨絵や陶器を愛され、多分に芸術家肌のところがあり、温厚洒脱のうちにも凝り性で・・」と馬淵が書いているように、令弟が建築を学ぶために渡米したとの記録があるし、兄が日本画家であったこともうなずける気がする。移川がシカゴ大学時代に人類学を専攻したか否かは定かではないが、ハーバード大学大学院で、当時、南太平洋の民族文化の専門家であったR・Bディクソンに師事し、"Some Aspects of Decorative Art of Indonesia" により、ドクターの学位を得たのである(因みにこの論文は、終生、推敲を重ねられていたという)。
 従って、移川が米国でこの分野においては知られた研究者であったこともことさら不思議ではない。東京商科大学講師時代に次のようなエピソードがある。(宮本)
 同大学総長の福田徳三が渡米した際に、各地の大学で「貴大学にはプロフェッサー・ウツリカワがいますね、彼は立派な人類学者だ」と言われたが、当の総長は自分の大学に移川という教員がいることを知らなかった。そしてあわてて旅先から大学に「移川を教授にするように」と電報を打ったという。日本より米国でのほうが認知された存在であったのだ。
 その後、移川は、台北帝国大学創設と同時に南方研究を深化発展させるために開設された「土俗・人種学講座」を担当した。本来、「民族学」とすべきところ、台湾総督府が民族運動への影響を恐れてか「民族」という名称を避けたとも言われているが、当の移川は「この問題には殆どふれられなかったが、名称などはどうでも宜しい様なお話ぶりであった」(馬淵)という。
 いずれにせよ、台北帝大時代における移川の最大の学問的貢献は、助手の宮本延人と学生の馬淵東一とともに無文字社会である高砂族をフィールドワークし、彼らの口碑伝承から歴史を引き出すことにより諸族の系譜を再構成し、その系統所属を明らかにしたことであろう。また、もともと移川自身の関心が装飾美術、文様などの研究にあったことから、一時期考古学的発掘調査を行い、南太平洋諸島の石器文化の研究、更に西南太平洋諸民族の食生活の研究など、当時の研究がまだ細分化されていなかったとは言え、視野は広く南方民族文化研究というにふさわしいものであった。
 ところで、台北帝大での移川は「(大学の)講義に定刻にあらわれたことはなく、あらゆる会合に時間通りに登場したことはなく、原稿の締め切りに間に合ったためしはなかったという」。1936年に開催された東京人類学会・民族学会第1回連合大会において、「未開社会に於ける時の観念」と題して講演した際に1時間も超過しても平然としていたという話は、その時のテーマからも、あまりにも有名になったという。
 「いささかも権威ぶった面持ちを見せたことはなく・・」「ユーモアたっぷりの風格」をもつ一方、「あまりに完璧を期せられたがために・・・多くのお仕事が未完成に終わった」。「書くことをあまり好まれなかったのと、極めて凝り性で慎重を期せられたためとで、多くの御研究が未完成乃至未発表に終わっている」「名誉慾や発表慾に捉われずむしろ学問を楽しむと云った傾向が・・多分にあった」という(馬淵)。寡作であったことと、戦後間もなく死去したため、民族学・人類学の復興に携わることができなかったことが、一般にあまり知られなかった所以ではなかろうか。

 民族学・人類学という分野における南方民族文化研究のパイオニアとして著名であったことは事実であろうが、それにもまして、弟子である宮本、そして特に馬淵東一のその後の活躍が移川を著名にさせたとも言えなくはない。
 宮本は台湾の原住民文化の研究を起点に東南アジアを含めた民族学者として、また長く東海大学教授として活躍した。一方、馬淵は、沖縄を含め東南アジアの社会人類学的研究を志向し、その発表の場を世界に求め、あの構造主義人類学者クロード・レヴィ・ストロースの還暦記念論文集に寄稿することになる。更に、戦後、東京都立大学大学院で多くの人類学者を育てた人物であり、学界にはこの馬淵の薫陶を受けた研究者が多い。
 いずれにしても、大正時代初期に米国でドクターを取得した日本人なぞめったにいなかったわけで、正に日本の民族学、人類学の草分けであったことだけは間違いないであろう。その上、その人柄によって弟子達のみならず人類学界の関係者を魅了したのではなかろうか。

 安積の卒業生には多くの著名人がいるだろうが、移川子之蔵は、我が国の民族学・人類学界の草分け的存在のひとりであり、特に「南方民族文化研究のパイオニア」として著名な人類学者であった。いま少し長生きすることができたなら、恐らくは戦後の我が国の民族学・人類学界をリードしていたに違いない。
 いずれにしても、人間的には、名誉欲にとらわれることなく、学問に対する厳しい姿勢をもって研究に没頭し、そしてこれを楽しみ、それ以外のことには全く頓着しない、という正に学者然とした人物であったと言えるのではなかろうか。


下記写真も國立臺灣博物館収蔵・展示写真より転載。集合写真は前から2列目向かって左端が移川子之蔵博士。
前頁に
戻 る
前頁に
戻 る