原子力発電所の安全神話は崩れた【T】 | |||||||||||||
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2024.12.07 原子力発電所の安全神話は崩れた〜福島第一原発事故の顛末記【T】〜 イチエフ問題を検証する会(匿名OB)制作・編集 今から14年ほど前までは、日本の電力事情は地球温暖化対策に主眼を置き、化石燃料での火力発電所を廃棄し、より二酸化炭素排出量の少ない天然ガスやバイオ燃料、二酸化炭素を原料とする合成燃料を使用した火力発電に、あるいは太陽光発電や風力発電などの再生可能エネルギーを利用したクリーンな発電、そして当時の認識としては「安全と二酸化炭素を全く排出しない原子力発電」へとシフトを開始していった。特に日本政府と各電力会社は、発電コストが最も小さくクリーンと言われていた原子力発電について、今後も増加していく電力需要に対しインフラの整備を推進する予定であった。「日本の原発は安全策を何重にも巡らせて事故は絶対に起こらない」はずだった、ところが・・・ ⇒その【U】を読むのはこちらをクリック 2011年(平成23年)3月11日(金)14時46分、宮城県沖を震源とするマグネチュード9.0の巨大地震が発生した。震源地に近い、東北電力東通原発・女川原発、東京電力福島第一原発と第二原発、日本原電東海第二原発、これらの原子力発電所で稼働していた原子炉は巨大地震による振動で運転を自動停止したものの、続く津波により大きく被災した。そして被災から14年が経過し、再稼働が叶ったのは東北電力女川原発2号機の1機のみである(2024年10月29日起動)。 われらが福島県では重大なる事故があったことは周知の事実。東京電力福島第一原発の炉心溶融・水素爆発による、放射性物質の大量放出拡散である。原子力規制委員会の報告では、放出された放射性物質の量は2011年3月11日から5日間で、19京ベクレルに達した(筆者には数えられないほど巨大な数字である)。この原発事故により、日本の発電事情は大きく変化した。すなわち民意は原発に頼らないエネルギーを求めることになったのである。途端に電力は供給が大きく不足することになった。
2011年3月11日15時37分(地震から51分後)、福島県大熊町沿岸に巨大津波が到来した(原発付近で14mとされる)。東京電力福島第一原子力発電所は1〜6号機の原発が設置されているが、全号機ともにタービン建屋と原子炉建屋の両方が浸水した。全電源喪失で原子炉内の冷却水を失い、炉心溶融により水素爆発し建屋が崩壊した1号機と3号機、炉心溶融により原子炉に穴が開き大量の放射性物質を放出した2号機、運転休止中にも関わらず原子炉上部に設置された、使用済み燃料棒格納プール内の燃料棒が核分裂し水素爆発した4号機、これら4機の原子炉が大事故を起こしたのだ。地震により外部電源の供給を断たれ、津波により2系列あった自家発電装置が両方とも破壊され、バッテリー補助電源も落ちるという全電源喪失。そして電源が無くても蒸気で稼働するはずの非常用復水装置や冷却装置も停止した。誰も想定していなかった前代未聞の出来事だった。「安全神話」は大きく崩れ去った。 《その時、何が起きたのか?》------------------------------------------ 当時の状況を順番に追ってみよう。中央制御室も地震発生の51分後に到来した津波により電源を喪失した。照明が消え真っ暗となり、制御盤のモニターや警報機の音も次第に消えて4分後には真っ暗闇の上に静まり返ってしまったのである。幸いにも運転中の1〜3号機について、原子炉内で地震を感知し自動的に制御棒の挿入が行われ(スクラム)たことは、電源喪失前に確認できた。4〜6号機は休止中であった。 原子炉内の冷却水は急激に減少し燃料棒は露出した。核分裂により炉内温度が急上昇、1号機に始まり、3号機、そして2号機の順番に炉心溶融(メルトダウン)開始。1号機の建屋は水素爆発して上部が吹き飛び、3号機も水素爆発し建屋は崩壊。2号機は建屋の爆発こそなかったが、原子炉圧力容器の外側のコンクリート製格納容器が圧力上昇により穴が開き、放射性物質が大量に噴出した。予想外は休止中の4号機。3号機に隣接設置されていたのが災いし、使用済み燃料棒プール内の温度が急上昇、プールの水が蒸発した。核分裂の熱で火災が発生して建屋が崩壊した。5号機と6号機は、少し離れた場所に設置されていたことと、幸い運転を休止していたため事故を免れた。中央制御室にいたベテランの運転員達は、免震棟に控えていた吉田所長らの指示を受けながら対策を実施していった。様子を見るため外に出た2人の運転員が、1号機原子炉建屋入口の二重扉を開けようとしたが携行していた放射線量計が振り切れた。たった10秒で1ミリシーベルトを越えたのである。命の危険を感じ、扉は開けずに引き返した。地震発生時には構内に社員と協力会社の合計6,350人がいた。安否確認に手こずりながらも確認できた人員から、直接事故対応に関係しない約5,000人の職員達を、バスやマイカーで避難させ始めた。しかしながら正門を出ても、道路は津波による浸水と渋滞により2キロ以上に亘って車の数珠繋ぎが発生した。 免震棟に指揮所を設置し、指揮を執ったのは吉田昌郎所長(故人)である。当初は電源喪失により原子炉内の冷却水が急速に失われ、燃料棒がむき出しになっているとは誰も思っていなかった。地震から約9時間、全電源喪失から約8時間経過した23時50分、従業員のマイカーからかき集めた自動車用バッテリーをつないで、操作パネルの電源の一部が復旧し計器が動き始めた。なんと1号機原子炉格納容器の圧力が、設計の528キロパスカルを越え、600キロパスカルになっていた。すなわち原子炉本体に穴が開き、格納容器に高濃度の放射性物質を含む水蒸気が漏れて溜まっていることを意味する。後の専門家による原子炉のシュミレーションでは、この時刻には燃料棒の保護管が溶融し、いわゆるメルトダウンが始まっていたとされた。吉田所長は格納容器の異常圧力の数字を見るや、直ちに1号機のベント(格納容器の圧を下げるために蒸気を外部に放出すること)を指示した。しかし結果論ではあるが全ての判断と操作は遅きに失した。現状認識の誤りに誰も気づかなかったのだ。まだ1号機の原子炉にある燃料棒は、冷却水で覆われていると考えていたのである。電源喪失でベントのための弁開放は手動で行わなければならない。弁を開くためには誰かが原子炉建屋に入らなくてはならない。翌未明午前3時45分、1号機原子炉建屋内の放射線量を確認するため、完全防備で空気ボンベを背負った作業員2名が、建屋の二重扉を決死の思いで開けたところ、内側は既に白い水蒸気が立ち込め100ミリシーベルトまで計測できる線量計のアラームが鳴った。慌てて扉を閉め、中央制御室に戻った。この頃中央制御室内の放射線量も上がり始めており、12名の当直運転員と応援の作業員18名は危期に迫られていた。中央制御室と免震棟は650mほど離れている。全員保護服を着用した。 《緊迫状態は続く、死を覚悟》------------------------------------------ ↓撮影時期は2022年2月9日。福島第一原発の全景が分かる。ALPS処理設備建屋や、処理水貯蔵タンクも見える。 緊迫の状態が更に続く・・・ ⇒原子力発電所の安全神話は崩れた【U】はこちらから 放射性物質による汚染の状況(除染特別地域・調査地域) |
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